皮肉の語源は達磨大師が弟子を評した時に使った仏教用語「皮肉骨髄」

皮肉の語源は達磨大師が使った「皮肉骨髄(ひにくこつずい)」という仏教用語が語源です。

では、達磨大師がどのような場面でどのように「皮肉骨髄」という言葉を使ったのか、そして、「皮肉骨髄」の中から「皮肉」だけが残った理由について紹介します。

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「皮肉」の語源は達磨大師が弟子を評価した時の仏教用語

「皮肉骨髄」は大師が弟子を評価するときの言葉

「皮肉」の語源は、中国禅宗の達磨大師の「皮肉骨髄(ひにくこつずい)」という仏教用語が由来とされています。

「皮肉骨髄」は大師が弟子の修行に対する評価として示す言葉で4つに分かれます。

・「我がを得たり」→「あなたは私の教えのを得たから合格」
・「我がを得たり」→「あなたは私の教えのを得たから合格」
・「我がを得たり」→「あなたは私の教えのを得たから合格」
・「我がを得たり」→「あなたは私の教えのを得たから合格」

いずれにせよ、4つとも「心得ているから合格」という解釈です。

達磨大師は弟子に直接的な評価ではなく、わざわざ上記のような言葉で評価をしていました。

これが次に紹介する「皮肉」の意味に繫がります。

 

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なぜ「皮肉骨髄」の「皮」と「肉」だけ残ってしまったのか?

「皮肉骨髄」の「骨・髄」は物事の本質を見極めていて、優れているのに対し、「皮・肉」は物事の表面しか見ていない、見解が浅い=未熟者という評価を表します。

達磨大師は弟子の出来を見て「我がを得たり」や「我がを得たり」と言葉の上では評するものの、本音では非難をしていたということになります。

「皮肉骨髄」の「皮肉」が「骨髄」と比べて劣っていて、非難した言葉であることから、「皮肉」だけが残り、「表向きは褒めているが、遠回しで非難する」もしくは「うわべ」の意味を持つ言葉として、「皮肉」が使われるようになりました。

 

ちなみに達磨大師は、弟子がこの言葉を解釈するかは本人の自由で、それ以上追及をしなかったようですが、弟子に言葉の意味を自分で考えて、そこから精進してほしいという意図が達磨大師にあったようです。

達磨大師の「皮肉骨髄」は、現代のような悪意のある表現ではなかったようですね。

・「皮肉」の語源は達磨大師が弟子に評価を下した「皮肉骨髄」という仏教用語が由来。
・「皮肉骨髄」の「皮と肉」は、理解が浅いという解釈であり、遠回しで非難した表現であることから「皮肉」だけが残り、非難言葉として使われるようになる。

 

「わざわざ」は皮肉に聞こえてしまう?

「わざわざ」は丁寧な言葉ですが、使い方よっては皮肉に聞こえてしまう場合があります。

例文から分析してみましょう。

  • 「雨の中、わざわざお店までお越しくださってありがとうございます。」
  • わざわざお店にお越しいただかなくても、ご結構でしたのに。」

 

⓵は純粋にお客様に来店への感謝をしているのに対して、②は一見、申し訳なさの気持ちを謳っているかのように聞こえますが、言葉のニュアンスから煩わしい感じが残り、皮肉に聞こえてしまい、失礼に当たります。

 

例文のように、「わざわざ」は相手方に感謝の意を伝えるときは有効ですが、相手方に断りを入れたり、遠慮を促したりするときに使う言葉として使わない方が無難でしょう。

ましてやビジネスの場で目上の人に②の使い方はもってのほかですので、「わざわざ」の使い分けができるようにしたいものですね。

・「わざわざ」は、断りを入れるときに使用すると言葉のニュアンスから、皮肉に聞こえてしまうので、感謝の意を伝えるときのみに使用する。

達磨大師をモデルにした「だるまさん」には何故手足がないのか?

ダルマに手足がない理由は、仏教僧・達磨大師の苦行した姿をそのまま形にしたからです。

達磨大師は悟りを開くためにも、壁に向かって9年という長い年月の座禅を行ったことで、その過酷さゆえに手足が腐ってしまい、切り落としたといいます。

これが理由で手足のないダルマの形になったというわけです。

そしてダルマは「何度転んでもくじけない」という縁起物の置き型人形として世に広まっていきます。

補足ですが、ひとつのことに忍耐強く専念してやり遂げることの意味で「面壁九年」という言葉もこれがきっかけで生まれました。

・ダルマに手足がないのは、モデルとなった達磨大師が行った過酷な座禅のゆえ、手足が腐り、切り落としたことから。

 

達磨大師が残した四聖句

達磨大師は禅の特徴をわかりやすく凝縮した4つの名句、四聖句を残しています。

これらは禅の教えのみならず、生きていくうえでも為になる言葉とされていますので、紹介していきます。

不立文字(ふりゅうもんじ)

直訳すると、「文字を立てないこと」ですが、体験や知識を得るには情報を得るだけでは不可能だという意味です。

物事の経験は、自分で実際に体験したり、実践して経験を積んだりして、初めて自分の物にするということです。

例えるならば、本を読んだだけで実践しないことには習得・マスターできないという風ですね。

物事の上辺だけ得て、で本質に触れないという部分では、まさに「皮肉骨髄」を辿っているのではないでしょうか。

 

教化別伝(きょうげべつでん)

教化は禅の教えが書かれた教本のことで、読書で学ぶことです。

人から聞いて学んだり、本などで学んだりして情報や知識を手に入れても、そこから自分で考えることをしなければ、知識が生かされないことをいいます。

読書だけでは知識が浅く、実践しないこと、触れないことには知識の本質を得られません

文字から学ぶことも大切ですが、学びっぱなしではなく、疑問を持ったら調べるなどをすれば、思考の幅や世界が広がり、重要な学びがあるという解釈です。

 

例えば、本を読んだら感想文を書く、講義で学習したらレポートを書くなど何かしらのアウトプットをするのはよくある話で、理に適っていますね。

 

直指人心(じきしにんしん)

「直指」は目を向けること、「人心」とは、人が持っている仏の心のことから、経文に頼らず自分の心に目を向け、座禅をすることで「仏心」を身につけることです。

物事を口頭で教えるよりも、実際に物事に触れて体験させてみるということが、手っ取り早く物事を十分に会得できるということです。

 

例えば、授業で公式の解き方を教えるときは教科書を見ながら口頭で説明するのではなく、黒板で書いて実践して説明したほうが理解しやすいですし、仕事でも口頭で説明するより実践しながら説明したほうが伝わりやすいですね。

 

要は「直接行動で示す」ということが自分のためにもなり、相手のためもなり、最大の思いやり(仏心を持つということ)になるということです。

 

見性成仏(けんしょうじょうぶつ)

「見性」は自分の本性を見極めることを指し、悟りを開くことで「仏心」を掴み取れることを意味します。

「見性成仏」は先ほどの「直指人心」をセットにして使われ、「直指人心見性成仏」と表記されることが多いです。

本来すべての人間の奥底には「仏性」という「仏となる資質」が眠っていて、自分の心に目を向けたとき(直指人心)に、それを呼び覚ますことができる(見性成仏)という考え方です。

 

「仏となりうる性質」はいつでも自分の奥底に存在し、心構えで仏になれるということで、要は道を開くのも閉ざすのも自分の考え方次第だということです。

 

「奥底」が「骨髄」と似通っていることから、やはり「皮肉骨髄」とも通ずる部分がありますね。

 

・達磨大師が残した四聖句は、いずれも「知識や悟りはうわべだけ吸収しても、本質に触れないと意味がない」という「皮肉骨髄」を辿っている。

 

意外?この言葉も仏教語だった

退屈

「退屈」は仏教語では、「修行を続ける気がなくなり、精進しなくなること」というのが本来の意味になります。

見習いがやる気を失せてしまうと、尻込みしてしまい、修行をしなくなります。

そして、修行をしなくなると空き時間が生まれ、やがて暇になっていきます。

 

この一連が由来で、現代において「退屈」は「することがなくて時間を持て余すこと。物事の関心を失い飽きている様子、またはその感情」を指すようになりました。

 

図に乗る

「図に乗る」は現代の意味「つけあがる」とは逆で、仏教語では褒め言葉でした。

仏教の経本には、楽譜のような音階や節回しが記載されてあり、それに沿ってお経を唱えていきます。

経本の横に記されている音階を表す印は模様や記号が描かれているため、知らない人が見るととても譜面には見えなく、まるで図面のようだと言います。

この図面を見ながらお経を唱え、図の通りに上手く唱えることができれば、「お経が図に乗れていて、とてもよかった」と師匠から褒められていたようです。

したがって、仏教語の「図に乗る」は褒め言葉で、これが本来の意味でした。

 

現代の意味へとなっていってしまったのは、「図に乗る」のは褒められるくらい難しいこともあったことから、褒められたことで天狗になる者もいました。

そこから、「図に乗る」に勢いづく、態度が大きくなるという意味が付加されてしまい、いつしかネガティブな意味しか残らなくなったことから、「図に乗る」は「つけあがる」という意味で定着されていきました。

 

挨拶

「挨拶」の元の意味は、「挨」は「寄り添う・近づく・押す」の意味を持ち、「拶」は「迫る・求める」という意味を持つことから、仏教では師匠が弟子の思慮・悟りの程度を知るために投げかける問答だとされています。

例えば、師匠が弟子に

「掃除は終わったか?」という質問に対し、

「はい。終わりました」「今最中です。」「終わっていません。」などの弟子からの返答に対し、

「まだまだ修行が足らぬ。」「これからも精進すべき。」

など師匠がこのように弟子に啓示します。

 

ちなみに「掃除は終わらないものなので、常にしています。」が理想とする返答だそうです。

こういった質問で弟子の修行の度合い、悟りの深さを一つ一つ切り込んで試したのが「挨拶」とされていました。

 

やがて「挨拶」は時間がたつにつれ、宗教的な意味はなくなってしまい、言葉の取り交わしだけが残って、現代のように礼儀としての「挨拶」に転じていきました。

 

・「退屈」は「修行に嫌気がさし、修行をやめてしまった人の空き時間」が由来。
・「図に乗る」は仏教語では、お経を上手に唱えた人への褒め言葉だったが、褒めたことで天狗になった者もいたことから、のちに「つけあがる」という意味になった。
・「挨拶」は師匠が弟子の修行具合を知るために弟子に投げかけた問答が由来で、時間がたつにつれ宗教的要素はなくなり、言葉の取り交わしだけが残り、今のような形になった。

 

 

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